橋爪啓自身が
捕鯨の祖太地角衛門の裔(すえ)にして 寂しかりける我らが一族
と歌にしているようにはるか古よりの
先祖から続いている歴史がある。
熊野太地浦で太地角衛門頼治が捕鯨を始めたことに
始まり、太地角衛門覚悟の代まで捕鯨が続いたと
橋爪啓自身が記している。
橋爪啓の先祖の家系は日本史に大きな影響を与えた
人物が数多く登場する。
■ 豪傑・朝比奈三郎義秀
また別の歌で
醜男の朝比奈三郎義秀の裔なるわれを鏡は映す
と橋爪啓が鏡に映る自分の顔を見てこれが
朝比奈三郎義秀の子孫かと唄ってもいる。
これは
▼朝比奈三郎 ….「吾妻鏡」に怪力夢想ぶりが伝わっている
太地角衛門以前の先祖にまたすごい経歴が並んでいるので
紹介したい。
この朝比奈三郎義秀とは鎌倉時代の豪傑で
鎌倉地方に住む人ならご存知であろうが
「朝夷奈切通し」という鎌倉にある七つの鎌倉七口の
ひとつである。
鎌倉は武士の要衝とする周囲を山に囲まれた地形であり
攻めにくい地形となっておりそのため源頼朝は
ここに幕府を開いたことはよく知られている。
この鎌倉七口のひとつである朝夷奈切通しをたった一晩で
切り開いたと伝わるのが朝比奈三郎義秀という力持ちの豪将であると
言われている。
この朝比奈三郎義秀は和田合戦(後に説明)で奮戦するも
敗れて和歌山県熊野地方に落ち延びて太地家の祖先になったと
伝わっている。
■ 鎌倉殿13人の和田小太郎義盛
その朝比奈三郎義秀は今、NHKで大河ドラマとして放映中の
「鎌倉殿13人」の13人の一人で別当として御家人の筆頭にあった
和田小太郎義盛の3男である。
それゆえ朝比奈三郎は和田姓も名乗っていたと橋爪啓は
記している。
和田義盛は平氏打倒に源義経らと協力して壇ノ浦合戦などにも
参戦しており鎌倉幕府樹立に最も貢献した武将であり
源頼朝より御家人(=鎌倉幕府の直結の家来)の筆頭である
別当に任じられている。
▼和田義盛とは
この和田義盛の血統は素晴らしいものであり
後に驚く史実が明らかになる。
▼和田義盛
和田義盛は鎌倉幕府の創建に尽力したがあくまでも
源頼朝を首領とする源氏に尽くすことを旨としていた。
これに対して北条氏はもとより源氏を傀儡として
実質を北条家のものとするために
源氏の弱体化を狙っていた。そのために最も邪魔になるのは
幕府の筆頭であった和田義盛である。
北条義時は和田義盛をけしかけて和田の乱を起こさせて
まずは和田義盛を排除しようと試みた。
これが源氏が3代で滅びる原因となり執権政治が
永く続くことになったのである。
大河ドラマから見れば北条義時が主人公であるが
和田一族の子孫から見れば北条義時は全くの悪役である。
■ 巴御前
「鎌倉殿13人」の中に長刀を奮って勇ましい姿を見せるのが
木曽義仲の妾として幼いころから一緒に育った巴御前(ともえごぜん)
である。
▼巴御前
巴御前は木曽義仲(=源義仲)と一緒に京に登って最初に平家を
京の都より追放した。
しかし木曽義仲の部下たちが京で狼藉を働いたのを制止させることが
できず後白河法皇と対立してしまう。
そこで後白河法皇は源頼朝を征夷大将軍に任じて義仲の打倒を
命令するのであるが実はその前にも義仲を征夷大将軍に任じていた。
歴史書を見ると源頼朝だけが征夷大将軍であったかのように
教科書にも書かれているが実は木曽義仲も平家打倒として
征夷大将軍に任命されていたのである。
この辺りは実に武士たちが後白河法皇に翻弄されていたかが
よくわかる。
教科書にはまた木曽義仲の軍勢がが京で狼藉を働いて
それを義仲が止められなかったとあるが実はこの鎌倉時代では
軍勢となる一般の兵たちには給金という給料や報酬は一切なく
そのかわり攻め入った現地での略奪は許可するというものであったのだ。
例えは良くないが今のウクライナ侵攻をしているロシア兵と
同じである。
武器は大将が調達したとしても給料を払うことはなかった。
給金が出るようになったのは後の織田信長の時代になってからの
ことである。
宇治川の戦いで義仲が敗れてからは落ち延びた巴御前は今の
滋賀県の膳所で小さな庵で義仲を弔うことになる。
他人に聞かれても「我は名も無き尼僧なり」と答えたということから
この庵は「無名庵」と呼ばれて現在の「義仲寺(ぎちゅうじ)」となった。
筆者は偶然にこの義仲寺に行き着いて大変驚いたものである。
和田義盛が自分の祖先であることは幼いころから聞かされていたが
巴御前のことは全く知らなかったからである。
後で従姉などに聞くと皆このことを知っていた。
また木曽義仲を敬っていた松尾芭蕉はこの義仲寺に自分を安置するようにと
言い残してこの世を去り遺言どおり芭蕉もこの義仲寺に葬られている。
弟子の詠んだ句には
木曽殿と背中合わせの寒さかな
とある。義仲はよほどに恐ろしい人物と思われたのであろう。
巴御前はやがて源頼朝の知るところとなり鎌倉に呼び寄せられて
和田義盛の妻となり3男として朝比奈三郎義秀を生むことになる。
これは諸説あるというものの現在、日本遺産となっている太地家の
墓にもこのことが石碑に正式に刻まれている。
大河ドラマの「鎌倉殿13人」でもいずれこの話と
太地家の墓も紹介されることになると思う。
▼[写真] 太地家の墓
■ 和田忠兵衛頼元が捕鯨を開始
朝比奈三郎は和田合戦で落ち延びて諸国を流浪の後に
熊野太地浦に辿りついて一子・頼秀が生まれた。
これが和田家の始祖となり和田忠兵衛頼元の代になって
慶長11年(1606)初めてこの地で捕鯨を開始した。
1600年が関が原の合戦であるから江戸時代に入るころである。
しかしこの頃は鯨を銛(もり)で突くという漁法であり
死んだ鯨が沈んでしまうため回収が思うようにできず
2年あまりで捕鯨は中止されたとのことである。
■ 和田角右衛門頼治による網取り漁法を発明
太地家に語られるのは角右衛門頼治がクモの網を見て
網取り漁法を考えついたことである。
この頃捕鯨の組は太地周辺に数多く存在していたが
鯨の乱獲のため捕獲数は減少している中で角右衛門頼治の網元だけは
飛躍的に捕鯨の数を高めたということである。
紀州藩主を通じて朝廷に鯨肉を献上した功績により
■ 太地角右衛門頼治となる太地家が保守本流
2代目紀州藩主の宅側光貞より「太地」姓を賜った頼治は
これにより太地角右衛門頼治と太地家を名乗ることになった。
現在、太地家を補佐していた和田家も存続しているようであるが
誤った報道によって和田家が太地角右衛門の主流の子孫であるかとの
ように報道されることがあって筆者の従姉であり
橋爪啓の娘である山崎史子氏はしばしば報道に抗議しているが
紀州藩主が「太地」姓を与えて苗字帯刀と士分を与えた現在の
太地家のほうこそ保守本流であることは疑いのないことである。
何しろ本物である証拠に徳川が与えた「太地」姓を名乗っているのである
からこれ以上に明確な違いはない。
新聞は誤った報道をしていたようである。
■ 太地角衛門の隆盛
網取り捕鯨を始めてからは太地家は隆盛を極めて
太地角衛門大金持ちよ 瀬戸で餅つく 表で碁うつ 沖のど中で 鯨打つ
と唄われた。
また江戸時代の井原西鶴の「日本永代蔵」にも
日本中の金持ちの一人として紹介されている。
現代でもITサラリーマンから歴史小説家として活躍している
伊藤潤の「鯨分限」の主人公として太地角衛門覚悟が
描かれている。
この太地角衛門覚悟という人は太地家の中でも豪快な人物であり
多くの逸話を残している。
機会があればまた紹介したい。
▼伊藤潤著「鯨分限」
▼小説の主人公となった太地角衛門覚悟
…太地覚悟は網元の権利を売却するや否や北海道で鯨取りを計画するなど
破天荒な考えの持ち主で小説「鯨分限」では船の中で
坂本龍馬や近藤勇などと乗り合わせるなど書かれていても
不思議さを感じさせない豪放磊落な神経の持ち主であった。
旅館の中での散在遊びも母からよく聞かされた人でもある。
太地家を代表する人物である。
■ ものすごい和田義盛のその後の家系
橋爪啓氏は語っていないが和田義盛からの子孫の流れが実は
ものすごいものがある。
和田義盛の3男である朝比奈三郎があまりにも武勇伝に長けた
すごい豪傑であってそこからの流れが太地角衛門という
希代の豪商を生むことになったのだが
別の流れとしても
● 和田朝盛(わだとものり)
和田合戦で生き延びた和田義盛の子である
和田朝盛(わだとものり)は
後に承久の乱で後鳥羽上皇側として戦っている。
● 佐久間家盛(さくまいえのり)
同じく和田義盛の子で佐久間家に養子に入っていた
佐久間家盛はこのとき幕府側として戦い恩賞として
上総国と尾張国を所領として与えられます。
佐久間家盛が尾張を所領としたことで
後々に歴史に大きな影響を残すことになる。
● 佐久間信盛(さくまのぶもり)
やがて尾張佐久間家は織田信長に仕えて佐久間信盛は
織田家の筆頭家老になる。
織田家の筆頭家老と言えば柴田勝家が有名だが
柴田勝家の前は佐久間信盛が筆頭家老であった。
佐久間信盛は大坂の石山本願寺攻めを信長から任されるが
あまりにも遅いというので信長から追放になって
たった一人でさまよって亡くなったと伝えられてる。
光秀らの家臣たちは佐久間信盛のような目に遭うという
ことで震え上がったにちがいないしそれが本能寺の変となる
影響を間違いなく与えている。
● 佐久間盛政(さくまもりまさ)
柴田勝家の家臣で鬼玄蕃と呼ばれた佐久間盛政も
和田義盛の子孫に当たります。
盛政は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉と戦いますが敗れて斬首されます。
佐久間の家系は江戸時代では信濃の大名となりますが
断絶している。
● 佐久間象山(さくましょうざん)
佐久間の家系で最も歴史に足跡を残したのは佐久間象山である。
この読者も教科書であのどうにも変人としか見えない
象山の写真を覚えている人も多いだろう。
▼[写真] 佐久間象山
信濃飯山藩主であった佐久間安政の子孫に江戸時代に入って
思想家であるあの有名な佐久間象山が現れる。
彼は
勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬
などに大きな影響を
与えた。
もちろん筆者も良く知っていたし少し個性が飛びぬけた人で
最後は暗殺されて京都の四条には佐久間象山の慰霊碑が
立っているのを見たことがある。
勝海舟は確か象山のことを「ついていけない」ほど
の人だと称し吉田松陰も象山に教えを乞いました。
この人は頭がよく天才肌でそのためか傍若無人で態度が
大きいため誤解されることが多かったようである。
▼[写真] 京都四条にある佐久間象山・大村益次郎遭難の碑
なんと和田義盛の血筋は佐久間象山にまで続いたのである。
織田信長の筆頭家老の佐久間信盛でも驚きなのに
佐久間象山とは実に驚きである。
和田義盛---+ |----+---- 朝比奈三郎義秀...太地角衛門頼治----頼盛---頼雄---頼勝----頼徳---頼休---+ 巴御前-----+ | | | -------------------------------------------------------------------+ | | | +--頼在----太地角衛門覚悟----太地頼松--+---- 太地常路-----太地亮(故人) | : | | : +-- 橋爪啓----山崎史子 | 歴史小説「鯨分限」 | | の主人公 +-- 池田五月--池田一明 | +-------- 和田朝盛 .......... 承久の乱で後鳥羽上皇を支援 | +-------- 佐久間家盛 . 上総国と尾張国を所領とする | +------- 佐久間信盛 ......織田信長筆頭家老 | +------- 佐久間盛政 ......柴田勝家の家臣 : +------- 佐久間象山 ...... 勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などを指導
佐久間象山と今、もし会えたら
「そうかお前が太地家の子せがれか? 大したことはないのう(笑)」
と言ってもらいたいものである。
…実は和田義盛の前もあって桓武天皇から繋がっている。
ただし桓武天皇には3000人の妾がいたという説もあって確かではないが
機会を見て紹介したい。
また橋爪啓自身が自分の先祖について文章を残しているのでそれも紹介していきたい。
橋爪自身は一族が零落したかのように語っているがどうしてご自分も含めて
さん然たる歴史を残したのではないかと筆者は感じている。