この推理は結論をはじめから予想したものではなく
理論的に推理を進めていった結果浮かび上がってきたものである。
決して初めからこのような結論になるように
話を進めたのではない。
順を追って「なぜ」を追いかけていって見えてきた結論である。
史実しか見ないのではなく数少ない史実から
論理的に導き出される定理もまた史実と同じ
信じるに足る価値の
あるものである。
多くの学者が正しいと信じることが真実なのではない。
理論的に証明されるものが真実なのである。
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本能寺の変のミステリー解明には多くの人が
出版などしているが論理的に解明されたものはなかった。
ある工学部出身の人は理論を持って解明すると
挑んだが結局は感じたものの羅列にしか過ぎず
家康の計画であるとかとんでもない結論に
到達していた。
歴史の大家と称して歴史番組にも数多く出演している
歴史家も信長が人前で光秀をしかったから、などと
子供じみた理由を挙げていた。
結局は彼らは学習していない。
理論や解析の積み上げがない。
今まで発表されている「説」とやらを見ていると
あまりにも幼いので今回これを発表するに至った。
これは私の功績でも何でもない。
今回の本能寺の変のミステリーはどんなプログラマーが
推理しても同じ結論に到達したはずである。
ただ誰もやらなかっただけである。
プログラマーは毎日もっと難解な問題のデバッグに
明け暮れている。
今回のミステリーはそんなに難しいものでは
なかったはずだ。
歴史こそ論理の目を持って解明していかなければ
ならない。
そのときに本当の歴史の意味が見えてくる。